11月16日13時より、博多区住吉にあるリッツファイブにて
盛和塾「九州・沖縄・山口塾合同例会2012」が行われました。
16時より、株式会社酒のキンコーの浜田龍彦社長の講演が
行われました。
濱田社長は1994年2月に盛和塾に入塾。兄から「稲盛塾長の
そばから離れるな!」と言われ、ずっと付いていました。
「あっちいけ!」と塾長に言われ、離れましたが、兄に「ずっと
ついとけ!」と言われた経験を持っています。
浜田社長は、鹿児島県出身。父は4代目、明治元年創業の
作り酒屋。そこの3男です。大学へは行きましたが、麻雀の
プロになりたくて雀荘へ入りびたり。プロになりたかった
のですが、プロの方に合ってみると、全くいい生活はして
いませんでした。
新宿でアルバイトをしていましたが、社員へ昇格。
夜の仕事をたくさん経験していたのですが、兄が東京に
来て実家に帰りました。実家は楽しくなく、また東京へ。
2回繰り返したら、首になりました。
鹿児島市でもう一度就職。
その就職先では、勉強会をやっていました。その勉強会に
参加
半年で現
酒飲み友達と仲良くなり、現場に出なくなってしまいました。
ある日、常務に呼ばれ退職を言い渡されました。会社に
出勤すると机もなく、みんな口も聞いてくれません。
3ヶ月は無休で働くので雇って下さいと頼み、働かせて
くれることになりました。それからは、本も読んで勉強も
しました。
会社は新人教育のため、寮を作ってくれました。社長と
一緒の寮なので、辞めることもできず、3年が経ちました。
昭和55年、焼酎ブームになり、実家が焼酎で全国展開
したいと言うことで、実家へ戻りました。
しかし、酒飲みなので時間にルーズのダメ社員。同期
入社の社員が、濱田社長に「お前はすかん!御曹司と
言うだけで、一生懸命にやっている自分が悲しい。」と
言われました。その話を聞いて、辞めることを決意しました。
今では同期社員は専務になっています。
その頃、酒の販売業には改革が起こり、酒のディスカウント店が
多数現れました。そして、子会社をディスカウントの会社を
相手に営業する会社を始め、濱田社長がその責任者に就任
することになりました。しかし、濱田酒造息子が営業をやって
いるとまずいと考え、母方の性の有馬を名乗って全国を回り
ました。年商も上がり黒字になりました。
そして、濱田社長は実家のつくり酒屋とは違う、酒のディス
カウントショップの経営を目指しました。鹿児島にキンコ―と
言う酒店が名乗りをあげてくれて、オーナーは借金は自分で
被
なりました。
しかし、お金がなく、奥さんの貯金で酒屋免許を買い取り、
開業する運びとなりました。
社員は、中学校の同級生と麻雀仲間に声を掛けました。
DVD等を見せ説得しました。給料は半分。しかし、良くなれば
1000万円は夢ではない。10年以内に100億円の会社になる。
と言う夢を叶えるために、毎朝5時から勉強会をやっていきました。
オープン日は、430万円。次の日は500万円と売上が伸びて
いきました。
平成3年。2番目の息子が川崎の店を出しました。その年の
鹿児島の売上は40億。しかし、川崎の息子の店は1店で40
濱田社長は、関東進出を決行。1年間で9店舗を作りました。
そして、3年後は上場といきり立つ。しかし、東京の店は競合
だらけ。鹿児島から支援金を送ってもらう有様でした。
そして、採用している社員は解雇。濱田社長はその方たちに
怒鳴られました。鹿児島も有能な社員が辞めていきました。
今考えると、経営指針もこれと言って立ててなかったのです。
働いている人がどんどん辞めていきました。そんな中、規制
緩和になり、業務用酒販店へ内容を転換して行きました。
日本中の業務用酒販店を見て回りました。そして、歓楽街の
市場を知りました。お店へは、15分以内で配達するのです。
アンケート用紙を使い、市場調査をしました。2000件から
現状分析ができました。
業務の内容は、ディスカウントとは全く違う酒販店。
逆にディスカウント店は、どの店も落ち込んでいきました。
これで、一気に伸びました。
現在、110店舗 1148名の社員で売上目標144億円で、
九州エリアで大きなシェアを狙っています!