「中洲を日本一の歓楽街にします」(古川隆奮闘記5)
もう1人との出会いがありました。
「やずや」の創設者、矢頭 宣(やず のぶお)社長との出会いです。
この方も中小企業家同友会で知り合いました。
たまたま、竹田先生も同じ同友会の支部でした。
最初はあまり話もできなかったんですが、
「やずや」さん主催の「21世紀生き残りセミナー」が、
平成9年の11月・12月にありました。
「やずや」さんはすごく伸びている会社で、矢頭(やず)宣男(のぶお)社長は
その会社の創業者だし、最初は、矢頭社長が言っていることが、
「どうも本当のような気がする?」ぐらいの思いで、とりあえず参加しました。
そこで、矢頭社長が言われました。
「社長をしている人たちは、社長をするんだ。
会社を経営するんだったら、年収1000万円はとらんと辞めたがいいよ!」と。
そのころ、僕は年商が750万円。
でも年収1000万円とらなきゃいかんと言われて。
本当のところ、当時は奥さんの貯金で暮らしていました。
あんまり給料も入れてなかったんです。
年商どころじゃなくて、年収なし。ギリギリの生活でした。
1000万円の年収がとれないなら、サラリーマンに戻れと言われて、
「どうしようかなぁ~」とほんとに思いました。
セミナー参加者はそれを聞いて、最初50人ぐらいいたのに、
次の回には15人ぐらいになりました。
なにしろその話を聞いて、会社の決算書を持って来いと言われて、
売り上げがどのぐらい、とか数字を書かされました。
セミナーで「年商いくらぐらいですか?」と聞かれるんです。
みんな1億いくらとか、少なくても何千万円とかです。
ここで750万円と言うのが、すごく恥ずかしく感じました。
そのとき多分僕が1番少なかったです。
矢頭社長が言われるんです。
「不動産屋って契約するまでは『これ、絶対いい物件ですから』とか言って、
ぺこぺこ頭下げて『間違いないですよ』って言うけど、
契約してしまったら、『あ、そう。もうあんた、買わなしょうがなかろうもん』
みたいに態度が変わる」と。
「不動産屋って世間からは信用無い業種なんだ」と言われて、
「ああ、そう言われたらそうなのかもしれないなぁ」と思い、
なんだか自信がなくなってきました。
矢頭社長にいろいろと怒られて。
「どうしていこうかなぁ」と何回も思いました。
その勉強会で、「経営計画書」を作ったのですが・・・
「経営計画書」ってご存じですか? 会社の指針書です。
今年どれぐらい売り上げをあげるかというのを書いた紙のことです。
今年どうする、例えば「10年後はこういうふうに会社はなりたい」とか。
例えば、朝、朝礼でみんなで唱和する会社の経営理念とか、
そういうものが書いてあるものです。
1枚でもいいので、なにしろ計画を立てて、文章に残してあるもの。
矢頭社長から「あんまり深く考えなくてもいいから、それを作りなさい」
と言われました。
4ページものの経営計画書を作成ました。
今は、いつも手帳の中に入れています。
その経営計画書もここ10年で、60ページのものになりました。
当時は4ページ。4ページで作りなさいと言われて作りました。
そのときに、書いてみると、どれだけ僕が考えてないか、気づきました。
「将来のことをどうしたい」
「どういうふうに仕事をやって会社をやっていく」のか
「どんな会社にしたい」とか「自分はどういう信念でやっていくか」
というのがわからないので書けない。
書けないんじゃまずいなと思って、4ページ必死に書きました。
その4ページ作成した、最初の「経営理念」「経営指針」とかは、
今も経営計画書に入っています。文章内容も、ほとんど一緒です。
それぐらい、そのときに発起して書いたことが、
今でもやっていかなきゃいけないものになっています。
だから絶対書かなきゃいけないですね。
ここは、皆さんへ、強く言えるところです。
矢頭社長は、「目標設定をしなさい。」「目標設定をしないといけない。」
と何度も、何度も言っていました。
会社の経営計画書があります。その表紙に絵があります。
これはビジュアリゼーションというものです。
「中洲を日本一の歓楽街にします」というのが、うちの会社の1番の目標です。
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創業当初は、4ページだった経営計画書が今では60ページあるんですね!
すごいです。
恥をしのんで、取り組まれた姿が目に浮かぶようです。
私も古川社長を見習って経営計画書から作成してみようと思います。
mayuどんさん読んで頂きありがとうございます。
創業当初は、4ページだった経営計画書。10年では60ページですね。地道な成果でしょう。
経営計画書は簡単なものなら、作り方をお教えいたします。