米から生まれた「日本酒」 大宰府天満宮 文化研究所 主管学芸員 味酒安則氏 後編
米は2000年前に日本にやってきた。しかし、米の収穫は
安定しない。足りない事も多い。だから、うどんや蕎麦が
補助食品としてできた。
一般的に米が出来にくい地域はうどんが有名。米があまり
出来なかったのだろう。中国や韓国の人達からは、昔から
「倭人(日本人の事)は良く酒を飲む」と称されている。
醸造の醸(ジョウ)は「醸(カモ)す。」意味は「噛む」から
きている。女性が米を噛んで、口の中の雑菌と米を
混ざらせて、酵母していたのだ。そのことから、この字は
出来たとされている。
酒ができたことで運搬技術もレベルがあがった。杉の木で
出来た桶が一番保存がきく。だから、酒屋には杉玉がある。
シルクロードから麹も入ってきた。平安時代の書物には、
酒は赤酒、黒酒、白酒、清酒があったと記されている。
しかし、平安時代後の鎌倉時代の酒は白だった。清酒の
作り方を忘れてしまった。また、室町時代は、お酒の事を
酒(ササ)と言っていた。また、酒屋は庄屋がやっていた。
江戸時代に酒屋大革命が起こった。山中新六という人が
変えたのだ。酒事で揉め事になり、酒を作っていた職人が
酒樽へカマドの灰を入れてしまったのだ。当時はまだ
白酒だった。しかし、カマドの灰が触媒となって清酒が
出来たのだ。今は活性炭を使う。
鴻池新左エ門と名前を変えて、江戸(東京)へ売りに
行った。江戸へ下ったのだ。
昔はご飯とおかずは別に食べていた。お酒も別に飲んで
いた。しかし、一緒に食べる様になった。酒も、ご飯と
おかずと一緒に飲むようになった。そうした変化から、
お酒も甘口から辛口へと変わった。
その辛口の酒をを作ったのが、灘五郷(今津郷、西宮郷、
魚埼郷、御影郷、西郷)である。灘の酒はこの地から
生まれた。また、この地域の宮水が美味しい酒作りを
後押しした。
清酒が出来たおかげで、お酒を運ぶために東海道も整備
された。菱垣船、樽廻船などの海運業者も、たくさん出て
きた。また、酒を作るのは、杜氏。杜氏は漁民が多い。
夏は漁業。冬は杜氏。漁業と酒作りの兼業者も多くなって
いった。
ここで、余談だが「酒造りは良米か良水か?」
池田は水。灘も宮水。福岡の城島も水が良い。
しかし、秋田は「秋田こまち」新潟は「越の寒ばい」など
米が良い。
酒が「主」か「従」か?
現代はグルメブームなので「従」。ビールもラガーより
ドライが良い。辛口が主流だろう。
酒屋は酢は絶対に造らない。酢を造ると、どんな事が
あっても菌が飛んで酒が酢になってしうから。
また、米酢はつんとくる強い酢た。マイルドな酢は、
酒粕からできた酢。つんと来ない。これを考えたのが
ミツカン酢。この酢を使って、にぎり寿司を考えたのは
元禄時代からである。
このように、米とお酒にまつわるお話を聞く事が
出来ました。最後に味酒先生から、酒で失敗した
歴史的な例をお話頂きました。
ひとつが、桶狭間で織田信長に敗れた今川義元。
雨が降っていたので軍を止め、酒を皆に飲ませた。
もちろん本人も飲んでいた。今川軍は25000人。
織田軍は3000人。酒を飲んでいたばっかりに、
1/8以下の軍に敗れた。
もうひとつが新撰組。鳥羽伏見の戦いで敗れた
新撰組だが、江戸へ返る途中、どこの宿場でも
英雄扱いされ、どこでも酒をあおり、国に帰る
時期が遅くなってしまった。そんな足止めを
食らっているうちに、新政府軍に先を越され
敗れてしまった。
「お酒はほどほどが良い。」というお話でした。
米がどうして日本にやってきたか?また、清酒はどんな
事から出来たのか?また、清酒が出来た事で運搬方法も
変わっていったというお話は、とても興味深く聴かせて
頂きました。
味酒先生、貴重な講演ありがとうございました!
安定しない。足りない事も多い。だから、うどんや蕎麦が
補助食品としてできた。
一般的に米が出来にくい地域はうどんが有名。米があまり
出来なかったのだろう。中国や韓国の人達からは、昔から
「倭人(日本人の事)は良く酒を飲む」と称されている。
醸造の醸(ジョウ)は「醸(カモ)す。」意味は「噛む」から
きている。女性が米を噛んで、口の中の雑菌と米を
混ざらせて、酵母していたのだ。そのことから、この字は
出来たとされている。
酒ができたことで運搬技術もレベルがあがった。杉の木で
出来た桶が一番保存がきく。だから、酒屋には杉玉がある。
シルクロードから麹も入ってきた。平安時代の書物には、
酒は赤酒、黒酒、白酒、清酒があったと記されている。
しかし、平安時代後の鎌倉時代の酒は白だった。清酒の
作り方を忘れてしまった。また、室町時代は、お酒の事を
酒(ササ)と言っていた。また、酒屋は庄屋がやっていた。
江戸時代に酒屋大革命が起こった。山中新六という人が
変えたのだ。酒事で揉め事になり、酒を作っていた職人が
酒樽へカマドの灰を入れてしまったのだ。当時はまだ
白酒だった。しかし、カマドの灰が触媒となって清酒が
出来たのだ。今は活性炭を使う。
鴻池新左エ門と名前を変えて、江戸(東京)へ売りに
行った。江戸へ下ったのだ。
昔はご飯とおかずは別に食べていた。お酒も別に飲んで
いた。しかし、一緒に食べる様になった。酒も、ご飯と
おかずと一緒に飲むようになった。そうした変化から、
お酒も甘口から辛口へと変わった。
その辛口の酒をを作ったのが、灘五郷(今津郷、西宮郷、
魚埼郷、御影郷、西郷)である。灘の酒はこの地から
生まれた。また、この地域の宮水が美味しい酒作りを
後押しした。
清酒が出来たおかげで、お酒を運ぶために東海道も整備
された。菱垣船、樽廻船などの海運業者も、たくさん出て
きた。また、酒を作るのは、杜氏。杜氏は漁民が多い。
夏は漁業。冬は杜氏。漁業と酒作りの兼業者も多くなって
いった。
ここで、余談だが「酒造りは良米か良水か?」
池田は水。灘も宮水。福岡の城島も水が良い。
しかし、秋田は「秋田こまち」新潟は「越の寒ばい」など
米が良い。
酒が「主」か「従」か?
現代はグルメブームなので「従」。ビールもラガーより
ドライが良い。辛口が主流だろう。
酒屋は酢は絶対に造らない。酢を造ると、どんな事が
あっても菌が飛んで酒が酢になってしうから。
また、米酢はつんとくる強い酢た。マイルドな酢は、
酒粕からできた酢。つんと来ない。これを考えたのが
ミツカン酢。この酢を使って、にぎり寿司を考えたのは
元禄時代からである。
このように、米とお酒にまつわるお話を聞く事が
出来ました。最後に味酒先生から、酒で失敗した
歴史的な例をお話頂きました。
ひとつが、桶狭間で織田信長に敗れた今川義元。
雨が降っていたので軍を止め、酒を皆に飲ませた。
もちろん本人も飲んでいた。今川軍は25000人。
織田軍は3000人。酒を飲んでいたばっかりに、
1/8以下の軍に敗れた。
もうひとつが新撰組。鳥羽伏見の戦いで敗れた
新撰組だが、江戸へ返る途中、どこの宿場でも
英雄扱いされ、どこでも酒をあおり、国に帰る
時期が遅くなってしまった。そんな足止めを
食らっているうちに、新政府軍に先を越され
敗れてしまった。
「お酒はほどほどが良い。」というお話でした。
米がどうして日本にやってきたか?また、清酒はどんな
事から出来たのか?また、清酒が出来た事で運搬方法も
変わっていったというお話は、とても興味深く聴かせて
頂きました。
味酒先生、貴重な講演ありがとうございました!
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